カシミール用位置表示を追加(2001/3/31)

山 の 遍 歴


                            92年4月26日記

 ・最初に意識して山へ行ってから20年近くなる。それぞれの山行については自宅 に『山旅ノート』が2冊ある。この記録の命名にしても『山旅』という田部重治の 言葉を知ってからだ。
 ・久しぶりに山を歩くようになって半年近い。ここで『山旅ノート』の総集編を 綴ることで一つの区切りとしたい。


1.ハイキングの頃

 ユースホステルに泊まって、蓼科へ行こうという話が持ち上がったのは中学1年 のときだった。
 この計画自体は参加者の(私を含めて)親の反対で中止になってしまった。
 この年の夏には当時自宅にバイトに来ていた2年年長の青年(というのに相応し いほど老けていた)に無理やり丹沢に連れていかれた(親が無理に頼んだのだ)が、 この年は後に『昭和47年夏の集中豪雨』と名付けられた豪雨が7月にあり、丹沢 一帯は関東大震災以上といわれる被害を受け、道路は寸断され山小屋は流されてい た。結局、中川温泉で泊まって帰ってきた。
 歩くのがいやでいやで仕方なかった。同行者との実力が違いすぎたのだ。結局登 らずに(あれ以上の辛酸を舐めずに)帰ってきたのはその後のためにはよかったの かもしれない。

 蓼科へ行こうとしていた同級生がハイキングにいくらしい、ということでわれわ れも別パーティでいてみることにした。場所は今でいう『鎌倉アルプス』、円海山 から六国峠をへて鎌倉へいく路だ。どういうルートで歩いたかはよくは覚えていな いが、最後は金沢の能見台におりた。もっとも当時は『能見台跡』という地名があ っただけで今のような住宅地ではない。中学1年の11月ごろだった。

 同じ仲間とその半年くらい前に大岡川を遡ったことがあった。今は市民の森とい う公園になり、道路も通じている氷取沢から1キロほど川を遡った。

 いずれにしてもその年の鎌倉アルプスをきっかけにして毎月のようにハイキング を始めるようになった。
 年があけると『高尾山から相模湖』『湘南平』『大楠山』『幕山』『高水三山』 とメンバはばらばらだが、2人ででかけた。この頃は靴は普通の運動靴でザックも 小学生のときに遠足で使っていた奴だ。近所の本屋で買った一番安いハイキングガ イドを頼りに水筒と弁当だけ持って出掛けていた気がする。勿論5万図なんてもっ ていなかった。

カシミール用位置表示| 中川温泉| 鎌倉アルプス| 湘南平| 大楠山| 幕山| 高水三山|


2.北海道

 『高水三山』へ行ったのは中2の5月。このころからハイキングではなくてラジ オやディスクジョッキーに凝りはじめ学校の成績が落ち始めるがまだ表面には出て こない。
 この夏はおそらく定年にでもならないと更新できないであろう18日間におよぶ 人生最大の旅行をした。北海道である。同行者は丹沢に無理やり連れていってくれ たM青年である。もっともこの旅行も親が仕組んだものである。ウチの両親はこ の2歳年長の当時高校1年生の山岳部員を全面的に信頼していた。(もっともそれ は正しかったようだ、当時不良のレッテルを貼られていた彼は進学高校に進み早稲 田をでてまっとうな高校教師になった)
 北海道はすばらしかった。特に島の西海岸を6時間かけて歩いた
礼文島 は辛かっ たが今でも思い出すすばらしい所だった。礼文や知床、大沼、これらの経験は自然 のすばらしさを教えてくれたのかもしれない。

カシミール用位置表示| 礼文島桃岩|


3.父の登山靴

 北海道から帰ると2学期が始まったが遊びが高じて成績がガクンと落ちていた。 それで暫くはまじめに勉強ということで暫く山から遠ざかっていた気がする。
 しかし、北海道に行く際に会員になったユースホステルの会員証がもったいない ので、箱根へいった。
 この時初めて一人で出掛けた。漸く一人でいってもよいとの父親の許可が下りた のだ。母は心配していたが。中3の6月に箱根のユースホステルに泊まって翌日、 大涌谷から神山、駒ヶ岳を歩きロープウエイで下り、箱根の旧街道を畑宿まで歩い た。なぜか二十歳すぎの幼稚園の保母さんが2名ついてきた。

 このときまで運動靴だった気がする。結構歩いたので足が痛かった。
 帰宅して父にいうと古い登山靴をくれた。ベロがある戦後直後のもので当時でも 20年近くたっていた気がする。こののち高校1年で自分の登山靴を買うまで何度 かこの靴で山を歩くが、宿帳に記入する岳夫という名前とともにいつも周囲の話題 を集めることになった。
 この靴で最初に登ったのは、今は100メートルも標高が下がり当時の山頂は削 られてしまった山、そう、武甲山である(当時は1,336メートルあった)。あ まり天気がよくなく遠望はきかなかったが、奥多摩の山が見えて、今度はあそこに ある2,000メートルの山(雲取山)に登ろうとおもった。正真正銘の単独行だ った。

カシミール用位置表示| 箱根旧東海道畑宿| 武甲山|


4.山で泊まる

 山小屋に泊まったのは翌月、中三の8月に行った雲取山が初めてだった。
 山小屋の食事は貧相であること。トイレは当然水洗ではないこと、広間で雑魚寝 であること、雑魚寝のときは男女とも一緒であること、水は貴重であること。など を知る。
 それと山の朝は物凄く寒いこと。朝の水は物凄く冷たいことも知る。
 もっともこの時はあまり早起きもせずに山小屋らしからぬ生活をした。
 雲取山荘脇の田部重治の碑を写真に撮ったものの、まだ彼の業績については未知 だった。

カシミール用位置表示| 雲取山|


5.田部重治

このころ、田部重治の名を知る。下山してすぐに『わが山旅50年』を買った気 がする。
 このころは既に『山と渓谷』を読んでいた。『わが山旅50年』も『ヤマケイ』 に載っていた二見書房の広告で知ったはず。
 『わが山旅50年』はむさぼるように読んだ。このころから奥秩父への憧れが募 る。
 ちなみに私の『山旅ノート』の巻頭言にはこの本の一部を転記している。


6.雪の山

 中三の12月、大晦日には大岳山に登った。御岳山をケーブルでなく丹三郎尾根 を登り、大岳山荘に泊まった。初めて自炊をする。山では炊きたてのご飯もすぐに さめてしまうことを知る。
 それと初日の出は見られないことも多いことを知る。
 雪路は凍っていると滑るが新雪ならキックステップで軽快に歩けることも知る。 このときは下山路で路に迷った。けものみちというのが本当にあることを知る。し かし、このころになるとすでにけものみちの見分け方ぐらいは知っていた。

 泊まりで行くようになると毎月というわけにもいかず、高校が決まった3月に丹 沢へいった。
 表尾根は誰にも会わず、塔の岳で尊仏山荘にとまり、夜でも富士山が雪明かりで 見えることを知る。翌日は主脈を歩き丹沢山から蛭が岳、姫次まで行き東野へ下り た。天気はよかったが富士山の右は雲で閉ざされ南アルプスは見えなかった。もっ ともこのころは南アルプスといってもどんな山があるかもしらず、当然山座同定は できなかったが。

カシミール用位置表示| 大岳山| 塔ヶ岳|


7.靴とシュラフ

 このころ既に自分用のザックは伊勢佐木町の『好日山荘』で買ってもっていた。 このザックは伸縮自在の割りと大型のものでこの後ずっと使用する。
 靴を買ったのは高校1年のときだ。当時最高級といわれヘンケ・モンブランと並 び称せられた、ローバのチベッタを買った。同時に羽毛のシュラフを買った。

 この両者を使用したくて、角の菓子屋のI君といったのが2回めの雲取だ。前日 の夜に鴨沢まで入り、薪小屋に勝手に泊まる。翌朝から歩きはじめて昼ごろに山頂 へ。あまり天気はよくなかった。初めて避難小屋に泊まる。ここで田園調布のT君一行に会 う。

 翌日は彼らと行動をともに飛竜へ向かう。


8.南アルプス

 初めて山を歩いて、富士山を初めて見たのがたぶん冬の丹沢。そして初めて南ア を見たのはこの飛竜山だった。禿岩から奥秩父の山波、国師のタルに白く八ヶ岳、 そして南アの白い峰々。あそこへ行きたいと思った。

 その年の夏は結局計画縮小の結果、鳳凰になった。
 はじめは北アの雲の平へと思っていたが、やはり経験不足、金不足。南もいきな り白根三山縦走は無理と判断し、入門コースの鳳凰にした。今にしてみれば妥当な 選択であった。
 ツエルトを購入し、ポールも買い、背負子も買い、30キロの荷物を背負って出 掛けた。夜叉神峠からの北岳の迫力、鳳凰のきれいな山肌、秀麗な富士、雲上の八 ヶ岳、晴天に恵まれ爽快な山であった。
 標高2,500メートルで米を炊くのに失敗した。
 それでもこのときの山が装備や様々な初体験のせいで一番印象に深い山である。

鳳凰三山のネガが出てきたのでスキャンしてみました(2002/12/29)

カシミール用位置表示| 飛龍山の禿岩| 鳳凰三山|


9.八ヶ岳

 前年の大晦日には大岳山へ行ったが、初日の出は見れなかった。
 この年の冬は田園調布のT君の清里の別荘にクリスマスイブから1週間こもった。窓から は茅が岳越しに富士山が見え右を見れば南アが見える結構なロケーションだった。 横尾山から続く山波は飯盛山までのび、その向こうには金峰の五丈石が光っていた。
 別荘から二時間でつく美し森からは八ヶ岳は勿論の大展望が開けた。

 この年の夏はすでに高校2年で受験勉強もまじめにやりはじめる時期。8月も土 用を過ぎてから北八ヶ岳へ行った。

北八ヶ岳のネガも見つかったのでスキャンしました。こちら

カシミール用位置表示| 別荘があった念場原| 美森山|


10.北アルプス

 このとき北横岳から初めて北アルプスの峰々を見た。本の写真でよく見知った槍から穂高へ のスカイライン、鋭いキレット、白馬三山、鹿島の双児峰・・・。しかし、結局北 へはいくことはなかった。
 それでもこのころになると有名な山の同定ができるようになっていた。
 この年の秋には高校の修学旅行があったが、立山黒部アルペンルートをとおる北 陸コースを選択したのはいうまでもない。

カシミール用位置表示| 立山黒部アルペンルート|


11.その後

 自分としてはこの北八つが最後の山であったと思う。その後何度か行くこともあ ったが、この頃を境に急激に山から関心が遠のいていった。それは受験のせいや、 大学での楽しいスポーツ等のせいでもあり、あるいは女の子のせいだったかもしれ ない。
 そんななかでもときどき思い出したようにいくこともあった。


12.単独行

 大学へ入る前の3月に徹夜あけで丹沢大山へいき見事敗退した。
 大学では当初『A』という山の同好会にはいる。今まで単独行主体の山を経 験しており今度はグループでもと考えたのだ。
 結局これが失敗だった。
 新人歓迎の山は奥秩父前衛の乾徳山だった。荷物は決して重くなく、行程も通常 は前夜発日帰りか、日帰りもコースが前夜発1泊であったにもかかわらず、いやで いやでしょうがなかった。
 結局他人と沢山で列をつくって歩くタイプではなかったということだ。
 山頂ではスケッチをして昼寝をしてというのがそれまでの私の山の姿。
 この山行から帰ってこの同好会をやめた。これ以降複数で山へ行くという考えは ついえさる。

カシミール用位置表示| 徹夜明け敗退の大山| 乾徳山|


13.スキー

 『歩行会』をやめた私は当時はやり始めの同好会に入る。この会は幹事長がペル ーアンデスへ一人で登ったという山好きのため合宿も海よりは山だった。夏は霧ヶ 峰で、八島湿原を歩き、車山をリフトを横目で見ながら登った。360 度の大展望に私はすこぶる満足し、テニスをやることもなく、2回も同じコースを 歩いた。

 山へ行きたいという気持ちはあった。そしていつの日か山スキーをと考えていた。 山スキーをするにはゲレンデスキーができなければ、という気持ちで初めてスキー に挑戦するが、ゲレンデスキーは楽しくて面白い。私は当初の目的を忘れてゲレン デスキーに熱中する。志賀高原あたりからは晴天に恵まれると北アの大展望に恵ま れすこぶる満足していた。
 おかげでスキーは得意の分野になり今でもたまに出掛けても下手だといわれるこ とはない。


14.迷い

 大学も4年、そろそろ就職活動もというころに一度だけ北八つにでかけた。この ころは割りとお金があったのか夜行電車ではなく特急あづさで行った。それでもか なりのブランクを気にしてコースを短縮して麦草峠までバスにのり、黒百合平に向 かった。夜はツエルトにくるまってシュラフカバーだけで寝ていたら雨が降ってき て起こされた。山へいくのにセーターは忘れる、ニッカボッカーは太りすぎではい らいないと散々な山だった。雨にたたられた山だった。
 このときは他に理由もあったにせよ、このままでは一生山へ行かなくなるのでは という不安があった。取り合えず歩きはじめてみようという時期だった。
 けれど歩みはここでストップしてしまう。

カシミール用位置表示| 黒百合平|


15.再び

 ストップした理由は様々であるが、一つはスキー、もうひとつは車であったきが する。晴天の日にドライブをするのは楽しかった。苦労をせずにながめのよいとこ ろへ行けるのだ。それでも山が嫌いになったわけではなかった。天神平から谷川岳 を眺めることもあったし、結婚して清瀬に住んでからも、秩父の山波、とりわけ崩 されていく武甲山を眺めるのは好きだった。()
 多摩ニュータウンに移ると富士山が良く見え、丹沢はもとより、奥多摩の峰々を眺めるうちに 南アが見えることがあることも知って喜んだ。
 最後のきっかけはマイカー登山というものの発見だった。
 車で登山口まで行く方法があるということの発見はもう一度行ってみようかとい う気にならせた。それからは図書館で山の本を借り、いりいろと読みいよいよ道具 を買った。去年の11月のころである。

 大菩薩峠へのマイカー登山 を皮切りに私はもう一度歩き始めた。

カシミール用位置表示| 天神平|


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