▼2004年 7月11日 (日)   -- No.[1]

江上 剛「統治崩壊」


江上 剛「統治崩壊」を読んだ。

ここでいう「統治」とは「企業ガバナンス」のことである。
企業や役員個人が危機に際していかに当事者能力がなくなってしまうのか、ということである。

小説宝石の2003年1月から隔月連載されていたものを単行本にして今年の3月に刊行したようだ。
ちなみに単行本のページ数を412ページであるが、相応の厚みであり、「復讐総会」とは紙質も違うので嵩高紙は使っていないようだ・・・。

中身は氏の経験を活かした銀行ものである。
ストーリーもなかなかいい(最後の水戸黄門的展開は「復讐総会」と同じであるが・・・)。

サラリーマンとして気になるのは、モデルの存在である。
この小説に出てくる銀行のトップはホントにひどい。もちろん事件がないと小説にはならないわけで誇張や複数のモデルの組み合わせはあろう。
しかし、この小説を読んだ人は「こんなにひどいのか」という思いを持つだろう。
大企業や大銀行のトップなどまったく知らないぼくなどの一般読者にとっては、これが銀行のイメージになる。
特に江上氏の場合は経歴から、その銀行が特定される。
今回の登場人物も、「檜垣」は「檜」から「杉」で「杉田」、「若村」は「村」から「西村」なのか?とモデルの詮索をしてしまう。

江上氏はあとがきで自身が退職した理由を雑誌「選択」の記事とは別の形で書いているが、この小説にしてこのあとがきがあると、「こんな結末を迎えることができたら江上さんは銀行をやめなかったんだろうなあ」と思うと同時に、当時の銀行トップはこんなだったのか、と思ってしまう。

江上氏はそれを望んでいるんだろうか?


▼2004年 7月31日 (土)   -- No.[2]

柴田翔「されどわれらが日々」

 たぶん20年ぶりくらいで、柴田 翔「されどわれらが日々」を読んだ。
 柴田 翔の小説やエッセイはこの本を皮切りに学生の頃、ほとんど読んだ。最近(といってももう数年前だと思うが)は小説では「中国人の恋人」、エッセイでは「風車通信」「晴雨通信」あたりか。先日、久しぶりに氏の新刊「記憶の街角 遇った人々」を見つけたので読んでいる。
 同時に、当時あれほど感銘を受けた「されどわれらが日々」の記憶がぜんぜんないので、昨日図書館で借りてきたというわけ。
 この作品は1964年の芥川賞。借りた本の奥付けは、1994年刊行で第105刷。ロングセラーである。
 
で、20年ぶりの感想であるが、主人公と同世代の頃に読んだ時の印象とは当然異なる。
当時は相当啓発され、自己評価ランキングでも最上位に近い評価をした覚えがあるが、今読み返してみると、思想的なことや生き方とかいうものよりも、当時の学生に影響を与えた運動の根の深さである。
舞台は東大である(柴田氏は東大独文)。
東大の秀才達の人生の一時期、あるいは一生に多大な影響を与えた学生運動やその元になる共産主義という政治思想に驚いた。思想の中身ではなくて、かくも簡単に(ではないかもしれないが)洗脳されるものか、ということである。最近また話題になったオウムやあるいは政府与党の一部をなす政党を支える宗教団体のことがちらっと頭をよぎった。

40年前の芥川賞は去年の芥川賞よりもきっと難解かもしれないし、主人公やそれを取り巻く同世代の人々の生き方や死に方には、現代の若者は共感できないのではないか、と思った。しかし、そう思う自分がすでに共感できない世代になってきたということかもしれない。
ということでなかなか複雑な読後感である。