▼2004年 1月 1日 (木)   -- No.[1]

小島烏水「アルピニストの手記」
アルピニストの手記
 昨年の11月のこのコーナーで3編だけのつもりだった山の本の話が延々と続いているが、目下のマイブームなのでご容赦。
 2004年のスタートは田部重治か木暮理太郎でスタートしようかと思ったが、まだそこまでまとまらず、この二人よりももう少し古い人の本からのスタートである。

 小島烏水「アルピニストの手記」は日本山岳会の創設者であり、ウェストンとも親交があった(というかウェストンに山岳会の設立を薦められたわけだが)小島のエッセイ集である。
 「アルピニストの手記」という書名から想像したのは、ヨーロッパ的近代登山、すなわち岩稜登攀を中心とする登山中のメモのようなものかと思ったら、中身は全く違い、登山記録を除くエッセイである。
 ウェストンとの出会いや山岳会設立までの経緯などの貴重な資料でもあるが、内容は多岐に渡り、文体も現代文であり読みやすい(「日本アルプス」の古文調に嫌気がさした方でも問題なく読める・・・、とはいえ「日本アルプス」は未見)。
 もともと小島は、志賀重昂「日本風景論」に煽動されて登山を始めるわけだが、志賀以上に小島は各種の著作を通じて登山者を煽動していく。と、思いながら読んでいたら、解説の水野勉さんもおなじことを書いていた。

 興味深いのは「上高地は神河内が正しき説」。上高地が以前は神河内とも書いた、くらいの話は平均的ハイカーにはトリビアにもならないが、もともと「カミクチ」と発音されるこの地への当て字が「神河内」から「上高地」と変化していくあたりを検証している。このあたりの流れは例の「白馬岳(しろうまだけ)」と「はくば」との話を見ているようでもある。(余談であるが、ウェストンの「極東の遊歩場」には白馬岳登山の話が出てくるが、大蓮華山との呼称以外に「山が雪で白いから白馬」という記述もあり、代掻き馬の話は出てこない・・・。要するに最初から白馬と呼ぶこともあったようだ)

 もうひとつ個人的に面白く読んだのは「生い立ちの記」の中のY校在学時代の話。
「Y校」と書いてすぐにどこの学校のことかわかる人は、横浜に縁のある人か、高校野球ファンであろう。「横浜商業高等学校」が現在の名前で、校章が「Y」であることから当時から現在までY校として横浜の下町では人気のある高校である。ぼくはこの学校には縁はないが、友人の多くが通っていたし、実家からも割りと近かったせいでなじみがある。高校野球の神奈川代表としても何回か甲子園に出場しているが、商店街の店主にOBが多いので、ほかの高校が代表になるときと応援や安売りなどの気合が違う・・・。
 小島がこの学校の出身者であることはこれを読むまで知らなかったが、(先代?)社長がY校出身ときく横浜の大きな書店ある有隣堂のサイトにこんな記事があった。こちら 


▼2004年 1月 3日 (土)   -- No.[2]

山口耀久「定本 北八ッ彷徨」
定本 北八ッ彷徨
 山口耀久(あきひさ)と「北八ッ彷徨」の名前はかなり前、山の本を始めて読んだ頃から知っていた(それはなんでかという話は別途・・・)。というか山口さん=北八ヶ岳を彷徨という先入観があり、実際には真冬の八ヶ岳全山縦走や阿弥陀岳のロッククライミングなどハードな山登りもされた方という印象がなかった。それほどまでに「北八ッ彷徨」は有名である。
 ここで紹介する「定本 北八ッ彷徨」は原著書の刊行から40年をすぎて山口氏自らが不備を整理して再度出版したものである。

 冒頭ではぼくのような先入観を持つ読者を洗礼する冬山や岩に関する話もあるが、その多くは北八ヶ岳、とりわけ雨池にかかわる文章が多い。そしてこれも有名な「富士見高原の思いで」で終わる。 山口さんについてのぼくのもうひとつのイメージはこの「富士見高原療養所」である。
 富士見高原療養所(現 富士見高原病院)は結核治療のための療養所である。病院の自サイトである こちら を見ると、この病院に入院した文学者は堀辰雄、横溝正史、久米正雄、竹久夢二と多数にわたる。山口耀久もそのひとりであり、山口はここで入院中に近所に住む尾崎喜八と出会う。

 閑話休題。南八ヶ岳は裾野を別にすれば登ったことがないぼくには、複数回通っている北八ヶ岳は当然ながら親しみがある。雨池と大河原峠は見下ろしただけだが、あ、「にゅう」にもまだ行っていない、「にゅう」に行かずして北八つを語れるか、であるが、この本に出てくる北八つのあたりは概ね行ったことがあるので、やっぱり好きな地域である。
 もちろん、山口さんが語る1950年代とぼくが歩いたせいぜい70年代後半以降とでは開発の度合いが全く違うわけであるが、それでもやはり山口さんの文章に納得できる部分はまだまだ多い。自慢じゃないが小屋代をけちって天場代も払わず、ツェルトかぶって外で寝たのはここだけである・・・。
 山口さんとの大きな違いは南八つやその他の山域でハードな山をやったあとに息抜きに来たとか半月も暮らした、ということではない、ということではあるが・・・。



▼2004年 1月 9日 (金)   -- No.[3]

角川書店 エーデルワイスシリーズ全6巻

 山口耀久「北八ッ彷徨」の名前はかなり前、山の本を始めて読んだ頃から知っていた(それはなんでかという話は別途・・・)、と前回書いたがその続きが今回である。

 「カラー版エーデルワイス・シリーズ」全6巻は昭和43年、角川書店から刊行された。監修が深田久弥、串田孫一、北杜夫で当時の有名な山の文学を集めたもので、中には多数のカラーグラビアもある。一冊490円。
 ぼくがこの本の一部の巻を読んだのは、高校の図書館で第5巻が最初だったと思う。
 各巻の目次をこちらにスキャンしたが、第5巻の収録作のひとつに「北八ッ彷徨」に収録される「雨池」がある。まだ世間にはよく知られていない頃の雨池でキャンプをして、いかだで遊ぶこの一文はぼくの中での北八ヶ岳のイメージ作りに大きく貢献した。
 また同じ巻には田部重治の「笛吹川を溯る」も収録されていた。笛吹川東沢を遡行したこの記録は田部の文章の中でも「数馬の一夜」とともに大変有名なものであることを後に知るが、山歩きを始めて間もない学生にとってこの一文は奥秩父への強い憧れを植えつけるには十分すぎるものであった。
 田部の文章を読んだのは間違いなくこの本が最初で、これを読んだあとに、二見書房から山岳名著シリーズの1冊として田部の「わが山旅五十年」が刊行されるのを雑誌山と渓谷で知ると、すぐに購入してむさぼるように読んだ(残念ながら二見書房の本は実家にて廃棄され、手元にあるのは平凡社ライブラリーの一冊である)。

 このシリーズの良さはふたつある。
三宅修の霧ヶ峰の写真
 ひとつは山の名著やすばらしい写真を手軽に楽しめる点である。まあ、それを狙ったものだから当然といえばそうなのであるが、単行本にはなかなか手がでなくてもこういうオムニバスの中で気に入ったものが見つかれば、先に記載したぼくのようにその後でちゃんとはまる道が開ける。
 特に多数のカラー・モノクロのグラビア写真は、その巻にあったイメージのものが多く、三宅修など当代の有名写真家になるものであったため、それ自体だけでもすばらしい。
 特に左の写真は当時持っていたたぶん日地出版のガイド地図「霧ヶ峰」にも使われていて、霧ヶ峰のイメージをいやおうにも高めてくれた。

 もうひとつは、山の本に興味がある人でも、通常ではなかなか手にしない、たとえば当時の大学受験生を大いに悩ませた評論家・小林秀雄や亀井勝一郎の山のエッセイなども読めてしまうことだ。
小林秀雄が深田久弥と親交があり山に行くことは深田の文章に何箇所か登場するので有名ではあるが、亀井勝一郎のような大和・飛鳥・聖徳太子というイメージの人に八ヶ岳登山の一文があることはなかなかわからない。

 このシリーズがぼくに及ぼした影響はかなり大きいのは事実ではあるが、出会った当時は半分くらいしか読まなかった(と思う。今、目次を見ても思い出せない巻がある・・・)。
 こういうオムニバスの全集ものは図書館で借りるのも良いが、手元にあってこそ価値がある。一文が長くないのでときどきパラパラとめくり一節を読んだり写真を眺めたりしたい、ということで極めて限られたぼくの本箱に納まる要件を満たしている。

 神田の古本屋でバラのものを時々見かけることはあったが特にほしいというほどのこともなくすごしていたが、先日、悠久堂でたまたまこの第5巻を手に取り、目次を見たら、上に書いたような事実がいっぺんに甦ってきた。その日は次の予定もあり購入しなかったが、ネットで検索すると値段はばらばらながら全巻セットでもあまり高くない。ぼくは6巻を3,000円+送料300円で購入した。大体2千円から6千円くらいで、中には1万円以上の値段をつけている店もあるようだ。悠久堂の6巻セット価格は失念したが第5巻は500円だった。その近隣店では9千円。
 ちなみに一挙に6巻も蔵書が増えたのでスペース捻出のため、山に関係ない本83冊がブックオフの在庫になった。



▼2004年 1月11日 (日)   -- No.[4]

山口耀久「八ヶ岳挽歌」
 八ヶ岳挽歌
 山口耀久「北八ッ彷徨」を読んだので、今度は2001年の新作の方を読んだ。
 作品は前作「北八ッ彷徨」が発表された1960年以降に「アルプ」に掲載されたものを中心に、表題作のみが2000年のものである。
 表題作および書名から、八ヶ岳の開発を嘆くばかりでは面白くないな、と思ったのだが、そういうことはなかった。
 初めての北八ヶ岳がピラタスロープウェイを使った世代のぼくとしては、またいったん開発されたロープウェイを横目で見て笹平まで登るつもりもないぼくとしては、あまり開発について嘆かれても困るのである。なるべく自然のままであるがいいのには越したことはないが、せいぜい週末の1日か2日程度で、山を楽しむにはこういった開発資源を享受してしまうわけだから、度を越した批判を読むと「あんたの時代はそれはよかったよね」と言いたくなることもある。
 ただし、短時間で山を楽しむことをあまりに正当化していくと、わけもわからずピークハントのみに走る傾向を助長することにもなる。

 前作の書名が「北八ッ」だったので今回は「南八ッ」中心かと思ったのだがそういうことはなく南の話も織り交ぜながらもたしかに60年代以降の「北八ッ彷徨」の決算が本書であろう。

 時代的には「北八ッ彷徨」に収録したもののほとんどが1950年代であるのに比較して、徐々に開発が進む60年代の話になるので、当然ながら開発を憂える記述も散見される。表題作は2000年に書き下ろした氏の八ヶ岳総決算でもあり、当然ながら50年代との比較での批判はあるが鼻につくところはない。
 むしろ、湖畔まで道路が開通してから30年の永きに渡り訪問していなかった雨池を訪れ、周囲の風景が変わったもののすばらしい紅葉に囲まれてたたずむ雨池に感激し、帰りは同行した雑誌の記者やカメラマンにも配慮して、それほどこだわることなくロープウェイを使って降りたことは、この「挽歌」がありきたりの郷愁話で終わることなく、さわやかな印象で読後感が良い。
 ミドリ池のしらびそ小屋の開設やその後の顛末の話は、もっとも北八ッらしいと評判の小屋だけに興味深く読んだ。トキンの話、用水路の話などもなかなか面白い。

 もちろん前作を読んでからこちらを読むことをお勧めするが、この本単独でも十分楽しめる。



▼2004年 1月18日 (日)   -- No.[5]

ハインリッヒ・ハラー「チベットの7年」
チベットの7年
「白い蜘蛛」の余韻で、「チベットの7年」も読んでしまった。
 「白い蜘蛛」よりも数段面白い。
 アマゾンから出版社のレビューを引用すると、「ドイツのナンガ・パルバット遠征隊に参加したハラーは第2次大戦勃発と同時に捕虜となり、インドの抑留所に送られたが、チベットに向けて脱走を企てる。厳寒のチャンタン高原を越える苦難の旅を経て、禁断の都ラサへ……そして幼いダライ・ラマとの心あたたまる交流。永遠の名著の新装版。」ということである。
 ハインリッヒ・ハラーのこのベストセラーはブラッド・ピット主演の映画、「セブン・イヤーズ・イン・チベット」のおかげで(といってもぼくは見ていない)ダライラマとの交流がメインなのかな、と思ったが、さにあらず。
 前半は捕虜収容所を脱走してからラサに着くまでの大冒険の物語である。
 チベットもヒマラヤにも疎い人間が読んでも、表紙折り返しの地図とともに自然と地形や風土、そして何よりも、遊牧民たちの人柄やその信仰がとてもよくわかる。
 6千メートル以上の高地をほとんどまともな装備もないまま、しかも時にはマイナス30度を超える厳冬の中を夜間にたった二人で行軍しきったハラーの体力はさすがアルピニストである。また逃避行の中で幾多の遊牧民や僧侶などと出会ううちにヘデンも到達できなかったラサにたどり着くことになる。
 後半の半分は、ラサでの生活がメインであるが、ダライラマと直接交流する話は最後の半分、全体の1/4くらいである。

 無宗教のぼくですら前半の逃避行で出会う人々の生活に、まさに中世といったほうがいい宗教の根付き方に驚くが、キリスト教信者であるハラーたちもまた同じように驚き、ラサでの生活ではまさに政教一体の体制やダライラマのチベット人にとっても存在について非常に驚かされる。

 時々エッセイを読んでる作家の椎名誠の夫人が何度もチベットを訪問しているが、なぜそれほどまでにチベットに惹かれるのかが少しだけわかった気がする。
 この本はチベット研究あるいはダライラマ研究の入門書としても有名なようであるがさもありなんである。
 ハラーがナチス党員であったことがとりだたされた時期があったが、一発あててやろうとアイガー北壁初登攀に挑む気概の若者が当時のオーストリア(ドイツ領だった)にいれば、ナチスに入るのも普通の選択だったと思えるし、それを以ってこの作品の価値と彼らがなした行動の成果に不名誉な傷をなすこともないと思う。
 この本は初版が1952年、増補版が66年に出ており、日本語訳は81年のものである。
初版は中国の侵攻でダライラマがラサを去り、ハラーも祖国に戻るまでであるが、増補版ではその後のチベットと中国との状況について触れている。日本語訳が出た時期からもすでに20年以上が経過し、ダライラマがノーベル平和賞を受賞しても、チベット問題は解決していない。


▼2004年 1月23日 (金)   -- No.[6]

音楽が楽しめない日本

 海外の音楽の著作権事情には全く疎いけど、海外のラジオ局の音楽がフリーで多数聞くことが2年くらい前から可能だ。音質はそこそこ(CD音質の場合は有料のようだ)だけど、BGMとして流す分には全く問題ない。
 ジャンルはゴスペル、クラシックからジャズ、ポップス、ロック・・・、なんでもある。
もちろんアーティストで選択できる。

 今日はたまたまエレクトリックライトオーケストラの「テレフォン・ライン」を聞いた。
この曲を聴くのは25年ぶりくらいかもしれない。

音楽の世界はけっこうデジタルな雰囲気があって、それなりにシステムなんかきちんとしているかもしれないような雰囲気もあるが、6年越しの楽曲データベースのシステムは完成したものの、いまだにレコード会社の因襲の壁に、模索しているが日本の実情(たしか日経システム構築1月号の記事)

 自らの利益のためだけにCDにプロテクトをかけて発売するこの国の音楽がPCでふんだんに聴ける日は永遠に来ないだろうなあ、と思う。


▼2004年 1月25日 (日)   -- No.[7]

藤村和夫「蕎麦屋のしきたり」
蕎麦屋のしきたり
 年末に図書館で予約した、Hさんお薦めの、藤村和夫「蕎麦屋のしきたり」の貸出可能の連絡が昨日の土曜日(2004/1/24)にやっとあった。

 題名の「しきたり」という言葉から堅苦しい蕎麦談義や作法の本のように思えるが、そうではない。「しきたり」とは作る側のしきたりが主である。しきたりには蕎麦やつゆを作るしきたりが中心になるが、蕎麦屋の名前など多岐にわたる。もちろん、用語や隠語も豊富、巻末には用語、口伝集がまとまっている。
蕎麦好きにはたまらないトリビア集かもしれない。

 ぼくは蕎麦は好きだが、通ではない。
 その程度のレベルの人が読んでも十分面白い。
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「一度でよいから、蕎麦に汁をたっぷりつけて食べたかった」と言った蕎麦好きの噺がありますが、きっと近所に「藪」しかなく、「更級」も「砂場」もなかったのでしょう
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これは本文の一節である。
世の中、藪流行なのはいかんともしがたいのは今も昔も同じ。
「藪」「更級」「砂場」のターゲット顧客、販売形態の違いやそこからくる蕎麦やつゆの違いなどの基本的な事項はもちろん網羅されている。
 この本は有楽町更科の4代目の作者が自身の経験はもちろん、幼少のころから聞き集めた蕎麦やの親父の話から出来ている。ざっと150年、江戸時代の終わりころからの蕎麦屋の変遷がわかる。
随所に引用されている蕎麦に関する俳諧がアクセントになっている。

 「腰がある」と「腰が立つ」の違いにふれて暗に世の中の自称蕎麦通をからかっているのも愉快だ。このふたつの差がわからない人は蕎麦屋でむやみに「このそばは腰があっておいしい」などといわないほうがいいようだ。

 なお、藤村さんは蕎麦関係の本を多数書いており、蕎麦の打ち方などの本もある。
ただし、氏曰く「蕎麦の手打ちだけでしたら素人さんでもすぐに名人になれる」そうだが、汁はそうはいかないようで、蕎麦屋の秘伝は汁合わせにあるようだ。

 ちなみに蕎麦屋でお酒の燗をするために徳利を湯の中に提げる装置を「花魁」(おいらん)というそうだがその名前の由来はここには書けないので、ぜひ回答をメールしてください。