▼2003年12月 5日 (金)   -- No.[1]

ナウでヤングなレンタルサーバー
Click Here!最近、ぼくのサイトのいくつかに貼り付けているバナーである・・・。
ロリポップというレンタルサーバーのサイト。
ナウでヤングな」というバナーのくさいフレーズが経営者はきっとナウでもヤングでもないんじゃないかと思わせる。
サイトを開くと(上のバナーをクリックしてみて・・・)不惑に達した男子が眺めるのは、思わず赤面したくなるような「おとめちっく」(なんて最近は言わないか・・・・)なページ。
しかも、ページの下の方には「ユーザの80%が女の子だから安心」などと書いてある・・・。
あのお・・。別にユーザの99%が男でも、そこに1%の女性がサイト開いても不安はないと思いますがああ・・・。それよりも会員数5万人の80%というと4万人の女性の個人情報の扱いのほうが大事なような・・・、などと余計なことを思ってしまう・・。
が、これに続く「お試し期間もあるから気軽に申し込んでみてね」はかなり正しい。

ぼくは広告付きのサイトはけっこう持っているんだがほとんど公開はしていない・・・。
やっぱり広告なしのサイトがいい・・・。

で、まあ月額250円で200MBだし、6ヶ月間申し込んでみた。
まだ、あまり使っていないんだが、けっこうまともかも。

入会してから2,3日でサーバーの調子はどうか、とか自動発信にしても、いちおうケアのメールが来る。アンケートは偶然だろうがやっている。

Click Here!よくよくみると簡単にWEBができるソフトのようなもの、とか。いろいろなCGIを簡単に組み込めるようなもの(左のバナー)もある。

なんといっても良いのはドメインがかなりの数、選択できること。

最初、何も考えずに lolipop.jp のまま申し込んでみたが、ちょっと長いのと名前がロリコンのようでイマイチである。で、サポートにドメイン変更について確認したところ、いったんキャンセルののち申し込みということで(試用期間なので会費未納でした)、再度申し込んで、sub.jp というのをとった。
てなことを、ぼくのBBSに書いたら、@niftyの山の展望の達人、W氏からメールがあり、氏もつい最近、sub.jpでこちらにデビュー(サイト移動)されたようだ。

たしかに最近はハードディスクはとても安いし、CPUを含めちょっとしたサーバーのパワーは2年前と比べても格段の差はあろう。そうはいっても浮き沈みが激しいこの世界、今年の8月にはかなり有名な個人向けレンタルサイト(専用サーバーもやっていた)が突如閉鎖になり、周囲にもその影響をもろに受けた人もいる。

ここは大丈夫かと、まずはサーバーそのものの状況を こちら で見てみると、そこそこまともそうでありそうだ。(かなり昔、まだみんなモデムの頃だけど、プロバイダーの出始めの頃、ある有名なプロバイダーの社長の写真を雑誌でみた。彼は社長室のようなところにいたが背面には19インチラックの中に多数のモデムが並んでいた・・・。おいおい、いくらなんでも事務室に置くなよ、と思った)

現在のサーバー数は100台。ユーザ数はすでに5万人に近い、ということは 200MB×50千=10,000千MB・・・10,000GB(=10 TB)でしょうか??(単位がよくわからんぞう)。サーバーが100台だから100で割ると1台あたり・・・、なんだ100GBか・・・ガラガラだな。・・・そう、5年前なら大変な数字だったろうけど。ハードディスクの容量はたいしたことはない。

ではデータセンターの費用はどの程度かかっているんだろう・・、収支はどうなっているんだ、と気になる。
で、ハード代とホスティング費用を試算しようとしたが後者がテンデンバラバラでわからないので専用サーバー1台貸し出しで試算すると、ソフト監視付きのセンターで1台が月額5万から10万円くらい。10万円とすると100台だと1000万円かかる。
一方、収入はというと、5万人から毎月250円なので1250万円が収入。初期費用とかは投資にまわすとして無視してランニングだけを見るとけっこうきつい。これ以外にサポート要員の費用もあるだろう。5万人となるとメールベースでも常時10名程度は必要ではないか(ここはチャットでサポートなんてやっているし・・・。電話はやっていない)。パート社員で対応しても相当なコストになる・・・。
となると、いかに安いデーターセンタを探して、相応の広告を打ってロットで勝負をしないとこの商売、やっぱりけっこうきついなあ、という感じである。

そういえば、先日、仕事関係でレンタルサーバーの見積もりを有名企業からもらったら50MBで月額4800円だった・・・。たしかに自前のデータセンターでデータは3重にもバックアップしてくれるにしても、CGIすら使えずにこの価格。まさにピンきりである。

ホスティングも単純なラック貸し、電気代空調費実費清算、サーバー監視一切なし、なんていうスペース貸しにすれば5ラックで100万を切れるかもしれない・・・。サーバー100台分10百万円は入会金で十分カバーできる、おお、十分儲かるじゃないか・・・、なんだかぜんぜんわからないな、やっぱり他人のふところのことを考えるのは難しいし意味ないな。

あれ、最近のレンタルサーバーは安いのにけっこう充実しているなあ、という話の流れにする予定だったのに・・・

ちなみにまだ会費は未納のままです。来週には払わないと・・・。


▼2003年12月13日 (土)   -- No.[2]

ウェストン「日本アルプスの登山と探検」
日本アルプスの登山と探検
ウォルター・ウェストンについては食わず嫌いであった。
 その名前は浅学のぼくでも、田部重治の名前よりも早い時期から知っていたと思うが、外国人が書いた本は訳がうまくないものが多くてあまり読まないし、日本人の本のほうがより身近に感じるからだ。
 ある日、図書館で読む本がないなあ、と思っていたら岩波文庫「日本アルプスの登山と探検」があったので試しに借りてみた。図書館はこういうときに便利である。つまらなければそのまま返却してしまえばいい。
 明治の頃の山の本を読んだって、今と違う環境で役にも立たないし、それ以前に「岩波文庫=古典=読みにくい翻訳」という先入観があった。

 ところが、読み始めると一気に読んでしまった。
むむむ・・・。こんなに面白かったとは。

今日、楽天ブックスから届いた本(これは手元に置くべきと思い、図書館の本を読んだ後に購入した)の奥付を見ると97年刊行で03年10月で第5刷、けっこう売れている。よく考えるとこれは最新の訳本なので日本語もこなれている。
 それよりも何といっても内容が面白い。

 この本はウェストンの3回、通算20年の日本滞在の第1期の頃の話、日清戦争前後の頃であるが、貴重な登山史であるとともに日本文化史でもある。
 もともと、本国イギリスで出版されたものなので、日本の言葉や地名を使うときにその由来や元の意味が記載されているが、これが、けっこう「なるほど」である。最近でいえば「へえ〜」である。日本人であるぼくが100年前のイギリス人に語源を教えてもらうのも不思議なものだ。

 迷信が支配し、外人が珍しかった当時の日本での苦労や偏見に会いながらも、ほとんどの場合によき案内人や理解者を得ながら、いくつもの探検をしていくウェストンの日本の山や人への親しみと愛情がとてもよく伝わってくる。
 鉄道もほとんどなく人力車や馬車での移動や山麓までに優に2,3日を費やしながらの山旅は、現在のハイカーが歩く山とはまったく違うものと考えたほうがいい。
 山に入ってからの描写もいいが、山麓に行くまでの渓谷や田舎道、そこで出会う純朴な古き良き日本人、農民とのこまごまとした出来事がとてもいい。

 ひとつひとつが、まさにアドベンチャーであり、探検である。
 迷信のおかげで3年もの間、笠ヶ岳に登れなかったり、一方で反対側に降りてしまったので新聞沙汰になった富士山などなど・・・。読んでいるときに脳裏に浮かぶウェストンの顔がインディージョーンズに見えてしまったりする。

 しかし、20年も日本で暮らしたウェストンも、1回ごとにお湯を入れ替えない日本のお風呂、昔の民家には必ずいた蚤、酔いつぶれるまで行われる隣室の宴会だけにはなじめなかったようだ。


▼2003年12月13日 (土)   -- No.[3]

ウェストン「極東の遊歩場」

 「日本アルプスの登山と探検」が予想外に面白かったので、図書館の書庫から「極東の遊歩場」を借りてきた。
 前作が第1回の滞在、日清戦争の頃のものであるが、今回は1900年に入ってからの第2回、3回の頃のものである。時代は日露戦争から第一次世界大戦である。
 槍ヶ岳北鎌尾根、鳳凰山地蔵岳のオベリスク初登頂。立山、白馬、甲斐駒、夫人による富士山初登頂など山のほうもなかなか。

 白馬岳は大蓮華岳と呼ばれていたが山が白いので白馬ともいうという記述もあり、よく言われる「代掻き馬」の話などまったく出てこない。
 前作よりも時代が経過しているので、同じ山に行くときの交通手段の違い「甲府までは鉄道でわずか6時間で行ける」!とか。
 地蔵岳のオベリスクを制覇したあとに、それを見ていた強力から、ここに社を立てて神官になりなさいと真剣に言われるたり、熊に追われるウェストン夫妻と嘉門次も出てくる。
 有名な嘉門次の真価も前作よりはこの巻で発揮される。



山の話は前作同様に面白いが、前後は日本文化論が前作よりも強く、これがかなり面白い。
 富士山の年代記、女性の地位、なぜ日本人は勤勉かといった話から、古代ギリシャとの比較や、兵役による教育、軍指令から徴兵先の親への手紙など特別の興味を持って探さないと目に触れることのない貴重な資料や日本人論もある。
 日露戦争のころは帝国陸軍の最盛期であり、司馬遼太郎「坂の上の雲」に代表される戦前の日本の最盛期であり、このころのすばらしい日本人についてウェストンはさまざまな思考をめぐらせ、また山で出会ったすばらしき人たちの話も満載である。
 第一次大戦の頃は、日英同盟の関係でウェストンの祖国イギリス側に日本は参戦しているにもかかわらずそれまでの敬意で敵国ドイツに対して親近感を持つ日本人にいらつくウェストンもちょっと面白い。

 外人による日本人論は学生時代に読んだベネディクトの「菊と刀」やヴォーゲル「ジャパン・アズ・ナンバーワン」以来のような気がする。しかし、80年以上前の日本人論も本質は変わらないようだが「自宅はこぎれいにしているのに、どうして列車の中や宿屋ではマナーが悪いのだろう」というのは今も変わらない日本人の恥部だろう。

 この本は昭和45年に刊行されたものを昭和59年に新装版にしたものであり新刊での入手は難しいが、平凡社ライブラリーの「日本アルプス再訪」が「極東の遊歩場」の新訳のようだ。
 上の写真は新装版の表紙。金色の文字が立派だ。下の写真は見開きである。薄く丸い円が見えるのは次のページにある上高地のウェストンのレリーフの写真である。以前、上高地に行ったときはウェストンには興味がなかったのでレリーフも見ていないので次回はレリーフをみたい。

 最後に、この本からではないが、イギリスに戻ったウェストンが上高地に帝国ホテルが建設されることを聞いて悲しみのあまり涙を流したことを記しておこう。そうはいっても次回上高地に行くときも徳本峠を越えずにバスで釜トンネルをくぐるよなあ・・・。


▼2003年12月13日 (土)   -- No.[4]

富士山を展望するための2冊
富士山発見入門

 富士山を眺めるための本を2冊。両方とも「関係者」である・・・。

 1冊目は山尾望こと田代博さんの「富士山「発見」入門」。奥付けは初版刊行12月15日であるが発売済みである。

 田代さんはぼくが参加している@niftyの「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」のマネージャー(旧シスオペ)なので過去に何度かお話もしている。偶然にも高校の先輩でもあることがわかったのはフォーラムに参加した後だが、フォーラム参加以前からお名前は「展望の山旅」で存じ上げていた。
 山岳展望の分野では第一人者なので初日の出や富士山の関係でこれからの季節はTVで見かけることもあるだろう。

 この本は文庫サイズであるが全ページが上質紙でありほとんどがカラー写真なので視覚的にも楽しめる。網羅しているテーマや内容は、ふつうの人はもちろん、山好きの人にも「へえ〜」と言わせるトリビア満載といえる。
 あとがき解説は山岳写真家白籏史朗さんが執筆している。後半の書評部分はなんということもないが、ご自身と富士山の関係について述べた部分は、氏の生い立ちを知らない方には面白く読めるかもしれない。


富士山展望百科

 さて、富士山の展望関係では同じ田代さんが監修でFYAMAPのメンバーがまとめた「富士山展望百科」という本がある。こちらは同じ12月15日刊行でも年は1998年である。ぼくも電車からの展望の一部を執筆した(実は記載に一部誤りがあるのが刊行直後にわかった(注))。

 「展望百科」と今回の田代さんの「発見入門」とは概ね記載しているテーマは同じである。
「発見入門」は刊行が新しいので富士山の遠望や富士見坂をはじめ全般にデータが新しくなっているが、データ量そのものは「展望百科」の方が多い。「発見入門」でもかなりの部分が「展望百科」参照、となっている。
 「展望百科」は刊行からすでに5年が経過しているが、内容的には古くはない。最遠望地点が変わったり、このときは富士山が見えた駅や坂が、ビルの新築で見えなくなってしまった場所などがいくつかあるものの、この本に記載した手法や考え方に大きな変化はない。それゆえ田代さんも「発見入門」の随所で「展望百科」参照、としているのだろう。
 というわけで「発見入門」は「展望百科」を脇に置いて読むことで面白さが倍増する。

 「展望百科」は田代さんをはじめFYAMAPの総力をあげてまとめあげた富士山展望のデータ集である。「発見入門」は田代さんが富士山への個人的な思いを総括した本といえるだろう。
 したがって、同じ富士山好きでも田代さんの趣向と違う人が読むと多少の違和感を感じる部分がある。

 たとえば、ぼくは導入部のダイヤモンド富士がやや読みにくい印象があった。
ダイヤモンド富士はマスコミでもふつうに使われる言葉になっている。最近の山岳展望の話題の中心でもあり、ダイヤモンド富士を追い求めるマニアの方も多い。「発見入門」ではダイヤモンド富士って何?から始まり、見える場所を知る方法や撮影時の注意、さらにはご自身のダイヤモンド富士の追跡の時の様子などかなり細部にわたり紹介している。
 それ自体は悪くないし、こういう情報を求めて購入する人も多いのだろうが、山岳展望好きではあるが富士山の展望にはそれほどこだわらないし、ダイヤモンド富士を眺めにわざわざ出かけるほどではない、というレベルであるぼくには導入部としては重い感じを受けた。(そんなぼくでも1度だけわざわざ見に行った場所がある。車で10もかからない近所の高台・・・。そのときの写真はこれ

 一方で、マニアックな場所から山を眺めたり、そういう場所を発見するのが好きなぼくには、たとえば山手線から0.3秒だけ見える富士山の撮影の様子のように、ふつうの人は「ふ〜ん」で終わるところは「へえ〜」となった。

 データ好きの人にとっては「発見入門」はデータが少ないと思うだろう。それは収録ページの関係でやむをえないので「展望百科」でそれを補完する必要があろう。そういう意味で、もし「発見入門」にデータ的に不完全燃焼、物足りなさを覚えた方は「展望百科」の購入をお勧めする・・・。ちと、くどいか・・。ちなみに増刷にでもならない限り、この本が売れてもぼくに追加で印税が入ることはありません・・・。

(注)「富士山展望百科」のぼくの記載部分の誤り
・101ページ:稲城を過ぎて若葉台の手前で左に富士山が見えるまでは見えないような記述になっているが、実際には稲城を過ぎて右手の山(向陽台)が切れると10数秒間、きれいに見える。若葉台の直前で一瞬左に見える富士山よりもよっぽどよく見えるのだ・・・。けっこう恥ずかしい間違いだが興味のない人にはどうでもいいだろう・・・。









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▼2003年12月14日 (日)   -- No.[5]

深田久弥「百名山以外の名山50」
百名山以外の名山50
 「百名山以外の名山50」とは苦し紛れの題名をつけたものだ。
もちろん、この題名は深田久弥自身の命名ではない。深田さんが書き残した(ほとんどがどこかで発表済の)山の散文や紀行を50山分集めたものである。
 したがって、ニペソツ山のように、百名山を選定したときはこの山にはまだ登っていなかった、とご本人が悔やむような山や、真冬に直下で撤退した笊ヶ岳のように百名山に入ってもおかしくない山も多いがそうでない山も含まれている。

 出版社の意図でこういう書名を付けるのはいかがかとは思うが、さきほど、アマゾンで深田久弥で検索したら売れている本の先頭に出てきたので出版社の意図はズバリ当たったのかもしれない。

 ぼくは最近興味を持っている西上州の山、荒船山、御座山、四方原山などが出ていたので読んでいる気になった。読んでみるとさすがに深田さんである。山の知名度や文章の長短によらずどれもなかなか面白い。天気が悪くてひどい目にあったり体調が悪い時などの様子が面白おかしく書かれているものものあり、「百名山」のように全部が重々しい美麗な文章ではないところが、この本の良いところである。

 また、深田没後の編纂ながらも元の文章は戦前のものもあり、多くは1960年初頭あたりのものである。交通の便も今と違うので、さすがにウェストンほどではないものの山麓までの描写も多数ある。

 最近のぼくのような平均的な山好きは山そのものや登山道に関しては行ったことのない山域でもおおよその見当が付く。どこの山に登ればどっちにどんな山があって、ということである。しかし山麓の部落や字(あざ)の名前を出されてもさすがにわからない。

 そんなときはパソコンでカシミール3Dを起動してそのあたりの地図を見ながら読んでいる。峠にでたところで展望があればそれをすかさずカシバードで描画したりもたまにはする。本来の読書法ではないのかもしれないけど、昔は山に行くまでの本当によく歩いたんだなあ、と実感する。

 もっとも深田さんもウェストンもそれを是としているわけでもなく、交通がないからそうしているわけで、深田さんのこの本では林道で偶然であったトラックを何度かヒッチハイクしているし、ウェストンもできるだけ馬車、人力車を使っている。という事実を知ると、登山口までいつもなるべく楽をしようとしている自分への言い訳になる・・・。


▼2003年12月15日 (月)   -- No.[6]

横山厚夫「東京から見える山 見えた山」
東京から見える山見えた山

 同じ横山厚夫さんの「山書の森へ―山の本 発見と探検」のおかげで山の本をまたそろ読み始めたので、数少ない手持ちの山の本として「東京から見える山 見えた山」を読み返してみた。

 この本の初版刊行は1971年である。
 学生時代にすでに絶版だったので、横浜市立図書館で時々借りて読む一方で、たまに神田の古本屋街に行くと探していた。現在のようにネットで古本を検索できる時代ではなかったので、神田の悠久堂で入手したのは平成になってからのことだ。

山書の森へ

 まるまる読み直したのは入手して以来であるが、初めて読んだ時には知らなかった先達の名前や業績や東京から見える山について多少理解が深まっていた分だけ興味深く、楽しく読んだ。
 ぼくが田部重治の業績を知るきっかけになったのは横山厚夫さんが執筆した奥多摩のガイドブックだったと思うが木暮理太郎の業績のうち山岳展望にかかわる部分についてはこの本によるところが大きい。

 現在の山岳展望の第一人者である田代博さんが「横浜からの山岳展望」を「地図の友」に発表したのが76年、藤本一美さんとの共著「展望の山旅」が登場するのは1987年であるから「東京から見える山 見えた山」とは実に16年の歳月の開きがある。その間、横山さんは間違いなく山岳展望の第一人者だったと思う。田代さんも横山さんのこの本の影響を受けていることが「山岳展望の楽しみ方」(山と渓谷社、YAMABOOKS)を見るとよくわかる。

 いずれにしても横山さんのこの本は山岳展望の本としては現代でも第一級の出来だと思う。

 江戸期以前の山岳展望の歴史、木暮理太郎などの先達の業績にはじまりご自身の体験から東京から見える山、見えた山について解説を述べている。書かれた時代が大気汚染、公害、スモッグが大きな社会問題になっていた頃なので、東京の空気は今よりも汚れていたようすがその展望の記録でよくわかる。ただ、執筆当時の東京の空の汚さと建物の多さを木暮理太郎が活躍した時代との比較で嘆く記述がやや多すぎると思うのは、当時よりも空気がきれいになり、都内から無理とされた日光連山を望むこともそれほど稀有ではなくなったせいかもしれない。

 現在はカシミール3Dのおかげで山頂で見える山や見えるはずの山の同定に迷うことはない。だからこの本に書かれた同定の方法や、その昔、中村清太郎や木暮理太郎が浅草の「12階」に通いつめて遠くに見える山を同定する姿を読んでも、なんとアナログな、と思うだけかもしれない。
 事実からいえばそうかもしれないが、バスで上高地に乗り込む現代の登山者は、徳本峠で初めて穂高に接した昔の登山者が味わう感激をもう味わえないように、便利になった分だけ同定の苦しみののちに見えた山の名がわかったときの喜びや意外な場所で意外な山を見つけたときの喜びが味わいにくくなってきており、逆に詳細な展望が事前にわかっているだけに見えなかったときの落胆が大きいのがIT時代の宿命なのかもしれない。
 もちろん、このことはカシミール3Dや最近の科学的な山座同定を否定するものではない。

さて、横山厚夫さんは、実際に東京から見える山を歩くためのガイド本「東京から見える山を歩く」も執筆している。この本も好きな本で何度か図書館で借りているが、ガイドブックとしてはさすがに内容が古いので入手していない。



▼2003年12月17日 (水)   -- No.[7]

平野武利「山頂にて」
山頂にて
 山岳展望を語るうえで、ぼく的にどうしても漏らせない1冊に、平野武利さんの写真集「山頂にて―中央沿線・山からのパノラマ」がある。
 この本は写真にあるように横長で見開きでパノラマ写真が掲載されている。写真は氏が独自に工夫をした専用の赤外線カメラによるモノクロであるが、その描写の細かさ、しかも、いかにも赤外線写真というしつこさがなく、とてもすばらしい。
 日本アルプスなど中部山岳や大雪山など大規模な山塊におけるすばらしい展望写真は幾多もあるが、この写真集がぼくのような年にやっとこさ2,3回くらい中級山岳にしか行かないような、落ちこぼれ登山者の心理をくすぐるのは、視点の山が比較的低山であるということである。中には北岳、乗鞍岳、木曽御岳のような3千メートル峰もあるが、高度の割りには難度が低い山が多い。

 ぼくのように、それほどの難度の山でもないのに、なるべく高いところまで車で上がり、最短かつ楽なコースばかりを歩き、アルプスを眺めることを楽しみにしている輩は、本格的な登山をする人にどことなく後めたい思いが(少しは)ある。
 しかし、そんなぼくでも登れそうな山でもこれだけの芸術的な写真になるような展望がものにでき、それらの展望をまとめた写真集が世間様から認められて、ロングセラーになっているのがとてもうれしい。
 たしかに笊ヶ岳からの南アルプスの展望はすばらしいだろうけど「おれっちにはテントかついで2泊は無理」と思ってしまう。ところがこの本の写真の視点はそんなことはない。
 高川山からの展望写真を見れば、「おれのときもこのくらい見えたな」と思うし、塔ヶ岳からは「夜に月明かりの富士山は見えたけど、南アルプスが見えなかった。今度行くときには確認したい」と身近に感じることができるのである。

 そういうことであんまりハードな山は無理、と思っている方にとって、自分の山歩きのアイデンティティを与えてくれる写真集がこの一冊である。
 価格も手ごろである。



▼2003年12月20日 (土)   -- No.[8]

わかりにくい@niftyの料金体系
 @niftyの料金コースを一番安い250円コースにした。今までは1200円のコースでした。
 ニフティに少し置いたあったホームページの素材は250円コースでは使えないので、先日開設したロリポップ こちらに移動した。
 
 正直いって、インターネットプロバイダとしては使っていないニフティに毎月1200円も払う気は全く起きない。ではなぜ今まで安いコースにしなかったのかというとコースによる課金の仕組みがよくわからなかったからである。

 ADSLがプロバイダ経由で申し込めるようになってから、プロバイダの料金の仕組みはとてもわかりにくくなった。
 あなたがすでに他のプロバイダでインターネット接続環境を持っている場合、こちら を見て、自分が入るべき一番安価なコースが一目でわかるだろうか・・・。

今までの1200円コースは正式には、スタンダードコースの「デイタイムプラスコース」という。
  今度のはスタンダードコースの「お手軽1コース」という。

 ここでニフティの料金の説明をみてみよう。こちら
 「デイタイムプラスコース」には、「ダイヤルアップ接続は6:00〜21:00に限り、時間無制限、他ネットワーク経由は時間無制限(上記時間外で@niftyアクセスポイント経由は5円/分を加算)」となっている。
 また「お手軽1コース」は250円/1時間(超過時間分:5円/分を加算)とある。

さて、ニフティには「フォーラム」というサービスがある。パソコン通信の時代から延々と続く電子会議室のサービスであり、ぼくの所属するFYAMAPもこれである。フォーラムにも2種類あり、いわゆる「パソコン通信手順」でTTY通信で読み書きするもの(旧会議室と呼ばれる)と、最近出来たWEBフォーラムと呼ばれる掲示板方式のものである。さらにWEBフォーラムの場合は@niftyの会員のみが読み書きできるもの、非会員でも読み書きできるもの、非会員は閲覧はできるが書き込みはできないものが1つのフォーラムの中で会議室によって分類されている。ちなみに旧会議室は会員のみが読み書きできる。

 ぼくのうちは家族名義で別のプロバイダのADSLに入っているのでインターネット接続にダイヤルアップは不要であるが、そういう条件で、これらのフォーラムを閲覧したり読み書きする場合は上記の接続時間に入るのだろうか???

 入会に関するQ&A Q.3-2接続時間の計算方法はどうなりますか? こちら によると、「@niftyアクセスポイント及び他ネットワーク経由での接続の場合は1回の接続〜切断ごとに秒単位で計算されます。」となっている。
 これを素直に読むと、デイタイムプラスコースでは他ネットワーク経由は時間無制限なので追加料金はかからないが、お手軽1コースでは1時間以上接続すると追加で5円/分、かかるように思えないだろうか。ただし、ログインするのは会員限定の会議室と会員発言限定の会議室で発言をする場合なのでここに入る、あるいは書き込むときに課金される・・・。

 実は違うらしい。
 フォーラムの会議室でのやり取りからわかったのは、要はログインする先が、旧式の会議室(WEBフォーラムでないもの)に入るときだけ課金される。WEBフォーラムは課金されない、メールもPOP3/SMTPでの送受信もWEBメールでも課金されない、ということらしい。
 しかし、さらに複雑なことに、ここに@niftyの「会員種別」なるものがある。
こちら を見ると、
アット・ニフティ会員 : 1999/11/1以降に新規ご入会いただいた方、旧Infoweb会員の方
アット・ニフティ(旧ニフティサーブ)会員 : 旧ニフティサーブ会員の方
と、あり、旧ニフティサーブ会員からアットニフティ会員へは変更ができる・・。

で、会員種別が旧ニフティサーブ会員だと上記がすべて課金されるらしい・・・。POP3/SMTPは除かれるはず・・・。
要するに旧ニフティサーブ会員は昔のパソコン通信システム側にいて維持費がかかるのではやくインターネット側に行きなさい、そしたら、課金は軽くしますよ、でも会議室の未読管理はやらないからね、というもののようだ・・。

 そういうわけで、旧ニフティサーブ会員から新しい会員種別に半年ほど前に変更したぼくの場合はインターネット経由での接続であれば250円で済むようだ。会員種別を変更したのはサーバ側でのメールのウィルスチェックサービス(月200円)を申し込んだため。なにせ1日100通以上海外からスパムメールがくるし、そのうち10通くらいは間違いなくウィルス付きなのでいちいち自分のPC側でスキャンしてはアラームが出るのがうざったい・・・。ついでにこちらは無料のスパムメールブロックサービスも使っている。

 最初の質問の答えは「お手軽1コース」なのであるのがわかるだろうが、料金案内のページにはこういう情報は全く出ていない・・・。(もちろん、上の条件が間違いという可能性もある・・・。その場合は今月の料金請求が250円を大きく超えるのでわかると思います・・)


▼2003年12月27日 (土)   -- No.[9]

中村清太郎「山岳渇仰」
山岳渇仰
 木暮理太郎、田部重治とともに奥秩父の開拓者として知られる山岳画家・中村清太郎は北アルプスの初期の冒険的な山行も行っているが、もっとも興味を持ったのは南アルプスである。
 木暮、田部の二人については割りと早い時期からその業績や著書になじんできたぼくが、中村清太郎に手を染めなかったのは氏の唯一の著作集である「山岳渇仰」という強烈な題名のせいである。
 山が好きなのはわかるけれども「渇仰」はいいすぎではないかと、題名からの連想でやや避けていた。

 田部重治の本は岩波文庫「新編・山と渓谷」をはじめ新刊・古本を問わず今でも入手がしやすい。木暮理太郎は「山の想い出」が平凡社ライブラリーに収録されているし、最近、登山講座(昭和18年、山と渓谷社)第5巻に収録されている氏の「東京から見える山」を読みたいがために全6巻を入手した(この話はいずれ)。
 そんなこともあり、残る中村の本も読んでみようと、図書館で新編・日本山岳名著全集4を借りた。 収録されているのは、氏の南アルプス単独行(当然、ガイドはいる)の2編が主である。
収録された紀行の年月とコースを記載しておこう。

・「冬の白峰山脈彷徨」:明治44年11月20日〜12月2日 静岡−大日峠−大崩山−梅が島温泉−雨畑谷−硯島−七面山−笊が岳−大島−甲府
・「大井川奥山の旅」:明治45年7月9日〜8月1日 静岡−大日峠−信濃俣−光岳−イザルガ岳−ガッチ河内岳−仁田河内岳−上河内岳−聖岳−兎岳−大沢岳−赤石岳−大井川上流−田代

 この時代のことゆえにアプローチが徒歩であるのは仕方ないものの静岡から歩いて南アルプスに入るまでが大変である。また「利益がないのに山に行く」ことがほとんど理解されなかった時代にあってはいろいろな仕打ちにもあう。同じようなことはウェストンも経験しているが、ウェストンの場合、外国人であることが逆に幸いした部分もあろう。

 中村清太郎は日本人であったがためによりいっそう「奇人」とみなされ、山に取り付くまでにかなりの苦労を強いられる。また天気にもわずかな日数を除いて恵まれていない。しかし、笊が岳に登るのだ、聖岳に登るのだ、という信念が凄い。「渇仰」は決して誇張ではない。

 このころ、まだこの地区に地図はなく中村が持っていたのは三角点の概念図である。要するに三角点どうしの位置関係を紙にしたものであり、尾根や谷の区別もない。また全般に天気に恵まれなかったために、聖岳から赤石への尾根の大きな屈曲もわからなかったため、大変な苦労をしている。
 そんな山行のなかで氏は画家の目で鋭く観察し、詳細に記録をしているのは驚くばかりである。

 ということで購入いたしました。購入にあたっては新編・日本山岳名著全集とするかオリジナルにするかを悩んだが、オリジナルを偶然ネットで見つけたのでそちらにした(写真)。オリジナルの刊行は昭和19年、太平洋戦争もいよいよ困難になってきた時期であり、その前年に出版された前述の「登山講座」と比べても紙質、製本のひどさが目立つ。新編の解説で「挿絵は巻頭の「赤石岳新雪」(原色版)以外は、紙質のせいもあってほとんど見るにしのびないほどのものとなっているのは寂しいし、残念なことである」と書かれたとおりである。しかし、それ以外は装丁の雰囲気といいさすがに山岳画家の本という感じである。
ほとんど見えない挿絵を補完するためにぼくは新編の方から挿絵部分だけスキャナーでコピーをしておいた。

 オリジナルには、新編には収録されていないインドネシア・セレベス島のカルバット山(2018m)への紀行が収録されている。その標高が雲取山と同じなのは偶然だろうが、この数字を見て田部重治「わが山旅50年」にある大黒茂谷の遭難の一節を読み直した・・・・。

 大黒茂谷の遭難は明治45年5月に田部と中村が大菩薩嶺から誤って大黒茂谷に迷い込み、疲労のため田部が意識不明となり、中村が丹波山までかけおりて救援を求めた事件。本人の回想によれば中村がスケッチに時間を費やし出発が遅れたのが遠因(と、何かで読んだ)。

パルバット山
ところで、セレベス島もカルバット山も山容がイメージできないと読んでも面白くない。と思ったらまさにこのために開発してくれたんではないか、というタイミングでカシミール3Dがスペースシャトル地図に対応した。スペースシャトル地図とは、あの毛利さんがスペースシャトルで操作して地球をスキャンして作った地図で、大まかなデータが無料で公開されている。



▼2003年12月30日 (火)   -- No.[10]

東京の地理がわかる事典―読む・知る・愉しむ

 山好きの人には地理や地図好きの人も多いが、地名やその地の歴史に興味を持つ人もいる。
 東京の地理や歴史に興味を持つ人にとっていちおうの基礎知識を本書は与えてくれるだろう。

 編者であり著者でもある鈴木理生という人は江戸文化史が専門のようで江戸に関する著作はかなりの数にのぼる。この本は彼の専門分野を生かしてより一般向きに書かれたもので、読むにあたっての基礎知識はほとんど不要である。

 太古の江戸、まだ埼玉や群馬の一部まで海だった頃から説き起こす手法はそれなりに評価できる。その後、江戸の名前の由来、太田道灌の時代、徳川家康が江戸に入ってからのことなど、このあたりまではとてもスムースに読み進める。
 しかしこの手の本の常として、近世以降、多数の場所でいろいろな出来事が同時多発的に起こる時代の記述はいま一歩であるような気がする。記載するレベルは同じでもまとめ方としては別の手法があったかもしれない。

 が、内容は相応に充実しており、東京の不思議な地名の興味を持つ人には十分な情報を与えてくれると思う。

同じ著者による東京の地名がわかる辞典という本もあり、こちらは2002/1刊行。前作で不足している点がカバーされているかもしれないが、こちらは未見。


▼2003年12月31日 (水)   -- No.[11]

「新編・白い蜘蛛」ハインリッヒ・ハラー

 学生の頃は、一度はヨーロッパアルプスを眺めてみたいと思っていたが、岩登りには恐怖を感じることはあっても興味はなく、したがってアイガーとマッターホルンくらいは山の形は知っているが、その登攀史にも全く興味はなかった。(なんせウインパー型テントのウィンパーがマッターホルン初登頂の登山家の名前であることすら最近まで知らなかった・・・)

 だから「ゼブンイヤーズインチベット」という映画は少しは知っていても、その原作者がどこの誰であることなど知らなかったし、ましてや「白い蜘蛛」というホラー映画じみた題名の本のことも知らなかった。
 したがってヨーロッパアルプスに関する本は浦松佐美太郎「たったひとりの山」の一部を除いてはこの本が初めての本である。

 前置きが長くなった・・・。
 この本は1958年にハラーが書いた「白い蜘蛛」を1999年になってその後の変化も踏まえて再度ハラーが書いた「アイガー北壁登山史」である。ちなみにハラーはにチベットから戻ったあと、1953年に「チベットの7年」を出版している(上記の映画の原作)。ハラーは1937年にアイガー北壁を他の3人とともに初登頂に成功している。
 ついでにいえば、ハラーのアイガー北壁征服はナンガパルバット遠征隊に選ばれるためのデモンストレーションであったことをどこか(たぶん横山厚夫さんの本)で読んだ。思惑はあたり遠征隊に選ばれてナンガパルバットでの偵察に成功するが下山後に第二次大戦が勃発し、オーストリア人(当時はドイツ第3帝国)のハラーたちそのままインドでイギリス隊に拘束され、5回めのトライで脱走に成功、チベットに入り「チベットの7年」となる(こちらはもちろん未読)。

 最近になって「白い蜘蛛」の存在を知ったが、興味のないアイガー北壁の初登頂物語など読んでも面白くないだろうと敬遠していた。ちなみに「白い蜘蛛」とは北壁の上部にある垂直の雪田で形が蜘蛛のようになっている。そこは落石と雪崩の通り道だが頂上に行くにはここを必ず通る必要がある場所のことである。
 たまたま図書館に「新編・白い蜘蛛」があったので借りてみた、というレベル。あとがきを含め500ページを超える大部なので読めるかどうかが疑問だったが、杞憂であった。

 ハラーの執筆の狙いは明白である。
 アイガー北壁を狙う登山者はその過去の多くの失敗と成功の例を学び遭難を繰り返さないようにすることだ。そのため、北壁への最初の挑戦にはじまり、状況がわかっている遭難についてはかなり詳しく記載している。一番記載が細かいのは自身の初登頂の部分であるのは目的からいっても当然であろう。自身の初登頂の記録以降も高度化、複雑化する挑戦の歴史を詳しく紐解いていく。そしてその過程でアイガーそして北壁がどんなところなのか、何に注意すべきなのかということがその地名を含め、読者には自然に入ってくる。このあたりの手法は見事である。
 いきなり初登頂の話を読まされてもぼくのように岩の知識がない人間にはちんぷんかんぷんだったはずの用語などが、それ以前の挑戦の記録を読むうちに自然とわかってくる。だからこそ大部なこの本が自然に読めるのである。
 巻末には登山用語の解説とハラーがたどったノーマルルートの詳細な解説があるがこれも当時のままではなくその後の挑戦者の情報を取り込んだものだ。

 日本人クライマーの名前も数多く登場する。
古くは浦松佐美太郎、槇有恒。女性北壁初登頂の今井通子、もちろん加藤滝男、保男兄弟も・・。カタカナの人名がめまぐるしく登場するなかで漢字の名前が出てくるとほっとする。
 後半ではマスメディアの問題、ごみの問題などについても言及されている。
北壁も初登頂はハラーたちは4日かかっていたが、現在の最短記録はなんと5時間である。1800メートルの高度差を5時間! 歩いて登ってもそれだけのスピードでは登れないぞ、ふつう。

 しかし、アイガーというのは面白い山である。
 すでに19世紀末にユングフラウ鉄道が計画され、20世紀初頭には完成している。アイガーは腹の中にトンネルがある(谷川岳の下を新幹線が走っているし、立山の下をトロリーバスが走っている国もあるが、時代が・・・)。
 そしてなんといってもアイガーがドラマを生んだのはふもとのグリンデルワルトとの距離であろう。北壁まで直線で3.7キロしかないこの観光地のホテルには72倍の望遠鏡が完備され、誰でもいつでも(有料で)北壁を見ることができる。カラビナや顔の表情まで見えるという。北壁を登るものは常に公開にさらされているが、この立地が遭難から救うことも多かったようだ。
 3.7キロというと上高地の河童橋から穂高を見上げるくらいの距離である。吊り尾根と岳沢の代わりにあの位置に滝谷があるようなものだ・・・。

 長らく忘れていたヨーロッパアルプス。グリンデルワルトから眺めてみたいものだ。